2011/04/09

epi:16 この声を



パートミシェル&マリナ P


ミシェルは隠れ家にしている洋館の三階窓から、中庭でちょこちょこと動き回るマリナを見下ろしていた。
気まぐれで食事をつくって以来数日間、ミシェルはマリナを避けていた。
自分でもなぜそうしているか理解できずにいたが、あの顔をみるだけで波立つ己の心に、心底嫌気がさしていた。
なぜだ、あれほど欲しかったもののはずなのに、向けられる表情ひとつにすら、神経が逆撫でされたように苛立つのは。
なぜなんだ。

明るい陽光の中、せわしなく動き回るマリナは、まるで解き放たれた子犬のように、落ち着きがない。
相変わらず洗濯物を外に干すという意見を譲らず、それとたわむれながら芝生に水を打ち、スケッチし、小動物を追いかけ、木の実や木の葉を集め―――ミシェルにとっては、まったく理解不能な戯事を繰り返すマリナを、高みから冷ややかに見下ろす。
だがその動きは、普段と変わらず飛んだり跳ねたり、容赦のないもの・・・とても妊娠を自覚している女のそれでは、なかった。

そう、ミシェルは妊娠の事実を、マリナには告げないでいた。



それによって、シャルルに対するマリナの人質としての利用価値は、ぐんと引き上がったわけだが・・・今彼女は自分の妻として、この館にいる。
それを告げるには、あの腹の中の子がどちらの子にしても、自分の子供として認めなければならない。
ミシェルにはそれが身の毛もよだつほど、うっとうしいことだった。

いい加減夫婦ごっこも、うんざりだ。
うんざりだよ、あんたにも兄さん、そして・・・あの女にも。

「堕りてしまえばいい…」

無意識に・・・端正な唇からこぼれた言葉は、誰に知られず、暗い足元へと落ち込んでいった。
はるか下方で、そんなミシェルの心を見透かすように、明るい顔を向けたマリナが、自分に向かって盛大に両腕を振りあげ、手招きしている。
瞬間、ひとつ大きく心臓が鼓動を打ち、ミシェルはそれに単純に驚いた。
ついでわきあがった苛立ちをどこへぶつけていいか分からず、壁に拳を打ちつけると、ぎりっとマリナを見据える。
その時、強い風が中庭を吹きぬけたかと思うと、何枚かの洗濯物が蝶々のように宙へと舞い上がった。
慌てて後を追うマリナ。
右へ、左へ、ベンチの脇へ、オブジェの足元へ。
その様子を小気味よく眺めていると、ふと視界から消えたマリナが、納戸から引きずってきたのだろう脚立を抱えて、再び中庭へと出てきた。
その先に目を向けると、モミの木の枝にはためく洗濯物。
「あの…バカ…っ」
次に起こる事態が容易に頭の中に浮かび、電気に打たれたような衝撃が己の体に走ったかと思うと、もうその場から駆け出していた。

「マリナ!」

風のように中庭に飛び出したミシェルの先で、不安定な脚立に乗って、その最上段で目一杯手を伸ばした小さなマリナが見えた。
指先がシルクの黒いシャツにかかった瞬間、もともと無理な体勢だったその体は、あっという間に、バランスを崩す。

―――自分に、これほどの力があったのか。

理屈でない何かが、ミシェルの足を風のように動かし、落下するマリナに腕を伸ばさせる。

時が、止まったように感じた。

次の瞬間、激しい衝撃と共に、ミシェルはマリナの柔らかな温かい体を感じ、それを逃がさないようにきつく抱きしめ、芝生へと座りこんだ。


「この・・・バカヤロウ!!」


―――自分から、これほど大きな声が出るとは。

腕の中で目を見開いたマリナが、つかんだシャツを抱きしめたまま、そんなミシェルを見上げていた。
「だ、だってあんたのシャツ飛ばしちゃったら・・・」
乱れた白金の髪が、キラキラ光を放ちながらマリナにこぼれ落ちる。
「そんなものどうでもいいだろ! 少しは自分の体のこと―――!」
荒い息を呑んで、ミシェルがはっとしたように言葉を切った時、その優美な青灰の瞳は、心配とやるせなさが渦巻いて激しく歪み、それはマリナの心に深く突き刺さった。
しかし自分を抱くそのたくましい腕の中は温かく、乱暴な言葉を裏切るように、しっかりとマリナを包んで離さなかった。
マリナの身の安全を、確かめるように。

呆然と向けられたマリナの視線に気付いたミシェルは、慌てたように体を離すと、くるりと背をそむけ拳を握りしめた。
「少しは身のほどを思い知れっ、このドチビ!」
「わ、悪かったわねっ! なによっ、あんたのシャツなんか飛んでっちゃえば良かったんだわっ」
真っ赤な顔でふくれるマリナは、立ち上がろうとしたが落下のショックを引きずっているらしく、足取りがおぼつかない。
それを視界半分に見ていたミシェルは、苦虫を噛み潰したような表情をすると、しなやかな腕を差し伸べて、それからは想像もつかない力強さで、マリナを引っ張りあげた。

手を・・・貸してくれた?
一体どういう風の吹きまわしだろう。
あの時、ミシェルは三階にいたはずなのに、気がついたら自分はミシェルの腕の中にいた。

『マリナ!』『この・・・バカヤロウ!!』

今まで自分に向けられた、あんな感情むき出しのミシェルの叫び声、聞いたことがない。
よく響くバリトンの声が、いつまでもマリナの耳の中で、心地良く響きわたっていた。
信じられない思いを抱えながら、どうにかその答えを導き出そうと、マリナははるか頭上の美貌を見上げる。
「なんだ」
じろりと見下された視線には、でもなぜか冷たい光はなく、出来の悪い子供に、不本意ながら手を貸してしまったというような、諦めに似た仕方なさみたいなものが浮かんでいた。

ミシェルは身を翻すと脚立を軽々と担ぎ上げ、そばに転がっていた、大きなランドリーバスケットも一緒に、手に取る。
「ちょっとっ、あたしが出したんだから、あたしが片付けるわよっ」
「うるさい、ドジなお前になんか任せられるか。僕のものを壊されるだけだ。
ああ、お前のせいでよけいな労力使っちまった、お詫びに茶でも入れとけよ」
ぶっきらぼうに言って、ミシェルはさっさと納戸の方へと歩いて行ってしまった。
マリナはその背を穴が開くほど、見つめていた。

もしかしてミシェル―――あたしのことを、気づかってくれているの・・・!?
まさかね・・・。
 



 
夕刻―――
台所に立つマリナは、大きな寸胴鍋でパスタを茹でていた―――特大の足台にのって。
なにせ小柄なマリナには、西洋の台所は、何もかもがひどくサイズ違いだったのだ。
ここにきて、不本意ながら足台無しでは生きていけない・・・と言っても過言じゃないほど、足元にあるそれは、すでにマリナの一部と化していた。

「さぁてっ」
マリナは気合を入れるように足台に上がり、茹であがったパスタを器にあげてから、鍋にたっぷり残った茹で汁を捨てるために、自分の上半身ほどもある大鍋をつかみ上げようとした。
その時、ふいに自分の背後からピアニストのような繊細な長い指先が、さっと現れる。
「ひえっ!!?」
「何をバカみたいな声出してんだ、ああ、もともとバカだからしょうがないか。
どけよ、これ以上そのバカ面を見苦しくしたくなきゃな」
辛辣な言葉を吐きながらミシェルは鍋を持ち上げ、流しへとその中身を傾ける。
熱湯の上げるもうもうとした湯気に紛れて、繊細な横顔が見える。
「あ、ありがと、ミシェル…」
「フン、ドジなお前が火傷でもしたら、もっと迷惑だからな」
言い返そうとふと顔を上げると、いつの間にか後ろの作業台の上には、ラップトップのパソコンが置かれており、ミシェルがもうずっと前からそこにいたことを示していた。
 



 
それからというもの、事あるごとに手を出してくるミシェルに―皮肉はしっかりついてくるが―、マリナの頭でひらめいていた不信の二文字は、その姿をだんだんと薄れさせていった。

戸棚の上の洗剤、表の野菜箱の重い根菜類、代えようとした廊下のシャンデリアの電球、階上に上げようとしていたインテリア、果ては力のいるパン作りにまで、ミシェルはいつの間にか、手を貸すようになっていた。
「ありがと、ミシェル」
「こっちよ、ミシェル」
「ミシェル~、ちょっとぉ」
明るく軽いマリナの声が日夜広い屋敷に響き渡り、その賑やかさは、たった二人だけの生活にもかかわらず、不相応なほどの様相を呈していた。


ある昼下がりに、開け放った窓から差し込む陽光の中、マリナとミシェルは競い合うようにパンの彫刻にいそしんでいた。
「どうっ、パンダよ。カワイイでしょっ、う~んあたしって天才だわっ」
「なんだそりゃ、ブタか?  芸術ってのはこういうのを言うんだぜ。
ほら、ふくれ顔のマリナだ」
それはパン生地にもかかわらず見事な出来栄えで、マリナはその完成度の高さに息をのんだ。

だが次の瞬間―――
いつだかも聞こえた、あの皮肉げな澄んだ声が、頭の中に鮮やかに蘇った―――!


(「タイトルは、もちろん、『ふくれ顔のマリナ』だ」―――)


「マリナ!」
よろめいたマリナを抱きとめて、ミシェルは片手で椅子を引き寄せると、そっとマリナを座らせた。
「ごめ、ん。大丈夫よ、ちょっと目がまわっちゃっただけだから」
「少し休め。無理なんかしないでいい」
そう言うと、ミシェルは汚れた互いの手をきれいに拭い、注意深くマリナを抱き上げると、静かにそっと寝室へと運んだ。
ぼんやりした意識の中で見るミシェルは、まるで聖画から抜け出た天使のように美しかったが、なぜだかひどく悲しげで、その瞳には濃い影が降りていた。
抱きしめられる温かさに感じる懐かしさに、マリナはミシェルとの事を考え直していた。

ああ、自分はやっぱりちゃんとこの人を選んで、結婚したのかもしれない。
やっぱり、この人を愛しているのかも・・・今までの自分は、この人の表面しか、見ていなかったのかもしれない、と。

けだるさと重い頭痛にみまわれたマリナをそっとベッドに寝かせると、ミシェルは半分だけカーテンをひき、まぶしすぎる陽光をわずかに遮った。
マリナに触れる繊細な指先は、まだどこかぎこちなさを残していたが・・・ミシェルは羽枕に埋もれたマリナの髪を、遠慮がちに撫でつける・・・。
「ごめんね、ミシェル。
なんだか最近変なのあたし、やだわ、どこか悪いのかしら」
「・・・あれだけ食って笑ってやがるお前が、病気なわけないだろ。
お前につく病原菌なんていたら、繊細な僕の方が先にやられるに決まってる。ずうずうしいぞ」
皮肉げに微笑んでミシェルが身を翻したその時、ふいにブラウスを引かれた。
振り返り見ると、自分を引き止めているのは、不安げな表情をしたマリナの、小さな手だった。
「どうしたのミシェル。だったらなんでそんな顔してるの? あんたが元気ないと、あたしだって悲しいわ・・・」
「顔・・・?」
「あんたさえよかったら、しばらくここにいてくれる? ・・・顔を見ていたいの。
あんたの声も―――最近、好きだわ。
はじめは怖かったけど、低くてよく響いて・・・優しい声。
あたしあんたの声、好きよ」
マリナは夢現つのまま、大きな瞳を閉じた。

その場に立ち尽くしたまま―――ミシェルは微動だにせず、呆然とマリナを見つめていた。

憎むべき血をわけた、たった一人の兄弟シャルルと、ただひとつ違うこの声を、この女は・・・なんと言った?

なんと?


――――――好きだ、と?


ゆるゆると上げた大きな手に覆われた繊細な美貌は―――なぜか泣いているかのように、歪んでいた。








読んでくれてありがとう



2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめましてぷるぷる様
だんだんと変化してゆくミシェルの変わりようがたまりません。
特にこの章が大好きで、何度も読んでしまいます。
ふくれ顔のマリナ!懐かしいです、トルソですよね。
もうオシエルが好きすぎて、
中毒のようになっています。
これからもどうか頑張って、みんなをなんとか幸せにしてあげてください。
復活ありがとうございました。

ぷるぷる さんのコメント...

いらっさいませ、匿名さまあ!
ようこそネットの辺境、偏愛あふれる裏LPDへーっ(^O^)
ウレシいですねーw ここにコメントいただけるなんてっ、ありがとうございますぅう。
しかも、ちゅ、中毒なんて言っていただけるとは…。゚(゚´Д`゚)゚。書き手冥利に尽きるってモンですよっ、恐れ多い!アウアウ、ありがとデス匿名さまv
ふくれ顔~っ、うふw シャルマリストにとっちゃ幸せバイブルでしたよねあの本は…! ぷる、保存用と資料用2冊持ってまーーーす(爆)あははは、ぷるも重症デスねv痛々しいです、ぅフ。
しかし…いまだにシャルミシェの声がなして違うのかギモンです(笑)
同じ骨格のはずなのにねぇ、ははは。
でもおかげでこの章書けましたv バリトンのお声、
聞いてみたいわあw …怒鳴られたらさぞや迫力でしょうな(笑)気の毒マリナちゃん、ぷ。
またいつでも覗きにきてくださいな! コメント大々受付中れす<(_ _)>ありがちょー、匿名さま。よい一日を!

ところで…復活って、もしかして旧LPDご存知のお方でしょうか!?…アウアウ、こちらこそお優しい言葉もったいないです。あ、ありがとうございますぅう~~~!