2011/04/15

epi:25闇編 目覚めの朝



パートマリナ&ミシェル P


鳥のさえずりで起きるなんてこと、久しぶりだ―――。
穏やかな朝日に包まれて、マリナはまぶたを持ち上げて体を伸ばすと、ふとした違和感を感じた。
いつもの重苦しい体のだるさがない、着衣も乱れていない。
昨夜の嵐の出来事に、マリナの思考は彷徨いいでた。
…花の香のように全身に残る、幸福なぬくもり…それに身を浸し、そのまま深い眠りに落ちてしまったのだ。
そう、―――ミシェルと、二人で。
久しぶりにベッドを共にしたのに、抱き合ってただ眠っただけという事実に、情事以上の羞恥を感じてしまうのは、なぜだろう。
今まで感じたことのない胸の高鳴りが、マリナを戸惑わせ、そして酔わせた。
貪られるだけの冷たい口づけも、情熱を昇華させるためだけのセックスも、分かち合ったのはこの肉体だけだった。

だけど今は……。

堪らずふと抱きしめた自分の肩が、やけに寒く感じた。
その時マリナは、なぜこんなにも体が自由なのか妙に思い、あることに気がついた。
いつも自分を縛りつけているミシェルの腕がないのだ。
しかし、すぐ近くに感じるぬくもりは、間違いなく彼のもの。
上半身を起しそっとシーツをめくると、そこにはまるで胎児のような姿勢のままで、安らかに眠るミシェルがいた。
白金の髪が奇跡のように朝日に輝いて、その美しさにマリナは、触れるのさえためらうほどだった。
それに触れることを唯一許されているのを、自分は知っている。
吸い込まれるように伸ばした指先に、白金の絹のすべらかさを認めて、改めてその素晴らしい感触に驚く。


そして―――何の前触れもなく唐突に、青灰の瞳が現れた。


まるで眠っていたことなど嘘だったかのように、いきなり見開かれたその瞳は、まず警戒心が強く燃え上がり、次いでマリナを認めると、徐々にそれを消しながら…誰をも魅了するような、鮮やかなきらめきを浮かべた。
輝く朝日の下でそれを見るには刺激が強すぎると、マリナは内心穏やかではなかったが、それから目を離すことなど、出来そうもなかった。

「―――ここはあの世か? 
ライオンのごとく爆発頭の、そのくせタヌキみたいな顔した天使が隣にいるなんてシュールな光景、とうてい現実とは思えないものな」

端麗な口元から滑り出たのはいつも通りの皮肉だが、それにさえ酔いそうになる自分に、マリナは歯止めをきかすのが精一杯で、シーツを握りしめたまま呆然としていた。
自分の気持ちを吐露した以上、昨日までの関係ではいられない。
新たにした絆が面映く感じ、マリナはとっさに言葉が出せずにいた。
呆けたようにただ視線を向けるマリナに、ゆっくり身を起したミシェルは顔を寄せると、まるで誘惑しているとしか思えない悩ましげな瞳の光で、目の前の黒い瞳をじっと覗きこんだ。


「―――どうした、腹がへりすぎて目でもまわしてんのか?」


「ちっ、…違うわよバカっ! あんたがその、あんまり綺麗だから、見とれてたのっ。まるで天使みたいなんだも…」


「ああ、お前女として、ほんっとフビンだよな。憐憫(れんびん)の情すらわいてくるぜ」


「な、なんですってぇ! なによっ、あんたなんかダ天使だわっ。背中見せてごらんなさい、きっと黒い羽根が生えてるんだからっ」


掴みかかろうとしたマリナの腕をいとも簡単に捕らえて、ミシェルは体を反転させ、強引にその小さな体をシーツの波間に引き倒すと、透けるような白金の髪の間から、冷ややかにマリナを見下ろした。



「よくわかったな。それにまだあるぜ……お前の肉を引き裂く、アリオクの爪がね……」



細い指先が首筋にかかった途端、マリナは以前のミシェルを思い出し、ひやりとしたものが内心を流れた。
やはり昨夜の嵐の出来事は夢だったのだろうか、この男と心を結んだと思ったのは、ただの幻想だったのだろうか。
自分を組み敷いて微笑みを浮かべ、その下に悪魔の非情さを隠したミシェルを凝視しながら、マリナは体を硬くして固唾をのんだ。
すると、首をすべる冷たい指先はすぐに離れ、かわりにこわばった頬を強くつねられて、マリナは驚いて目を見開いた。


「…フ、食われる寸前の子ブタみたいな顔すんなよ。簡単にダマされるんだな、単細胞のマリナちゃん」


とたんに破顔したミシェルに、張りつめていたものが溶け、またしてもからかわれたことに気付いたマリナは、あまりの腹立たしさに、首の動く限りミシェルから顔を背け、そっぽを向いた。



「マリナ―――こっちを向け、マリナ。僕を見ろ」



ややして…真剣な想いをふくんだバリトンの声が、静かに響いた。


以前は寒気さえ覚えたはずのその声は、強要するでもなく、恫喝するでもなく、いつの間にか自然にマリナの心に染み通っていく。
声に導かれるようにゆっくり視線を戻すと、目の前に鮮やかに息づくブルーの瞳があり、ただまっすぐに注がれるその光に、マリナの胸は熱くなった。
しかしミシェルは、腕の中にある存在に自分を向けることを、まだ躊躇していた。
様々な葛藤が、あるべき緻密な思考を狂わせ、今まで無意識に手にしてきた理(ことわり)たちは、今や何重ものヴェールの向こう側にあり、指先にかすりもしない。
自分を支えてきたそれを失いつつあることに、苛立ちすら感じ、同時に恐怖を感じた。
しかし、触れ合った肌から伝わるぬくもりが、まるで水あめをかけるごとくに、意識の鋭敏さを鈍らせていく。
それを感じながら抗おうとしない自分は、なんだ?
思考の鈍麻は、今まで生きてきた世界では即、死に繋がる危険なものであったはずなのに―――。
ミシェルはその正体を知りたくて、マリナを確かめるように、乱れた褐色の髪に、指をさし入れた。
まるで全身が指先になったように、その髪の一筋一筋の感触にすら、鋭敏に反応する。
―――夜色の目に見つめられるたび、心拍数が上がっていき、昨夜感じた何とも言えない熱が、自分の奥底からにじみ出てくるのがわかる。
出来ない。冷静に、この女を分析など出来ない―――。
その熱さえあれば、―――この世に成せないことなどないと、思えるほどの力強さ。
すべてのこだわりを捨て世界を変えることも…自分を、変えることすら―――厭わないと思えるほど

純粋で
無垢で
それゆえ抜き身で凶暴な熱!

それにあぶられるようにして、今までの自分が色あせていくのが、ぼんやりと分かりだしたが、ミシェルはそれを振り切ると、思考を閉ざして口を動かした。




「じきここを離れる。―――、一緒に、来るな?」




これを衝撃と言わず、なんと言おう……マリナは、自分の耳を疑った。
あのミシェルが、自分に同意を求めたのだ。
言い方こそ、肯定しか許さないと言わんばかりの横柄なものだったが、青い瞳の光にはひたむきさや、一まつの緊張すらが見て取れた。
ミシェルは自分と行くことを、マリナに選ばせたのだ。
そしてそれは間違いなく、”ついてきて欲しい”と願っての言葉。
お前の意志で、僕について―――
時折蘇るデジャヴーよりも鮮烈に、それはマリナの心に焼きついた。

「ビックリした」
「、なんだよ」
「だって今まで有無を言わさずあたしを振りまわしてきたあんたが、いきなりそんなこと言うんだもの」
「…頭のイカレてる女に意見を求めたって、なんの解決もないだろ」
「い、イカレテなんかないわよっ! ちょっと忘れちゃっただけじゃないっ」
「はっ、どんな違いがあるっていうんだよ。…で」
「なに?」
「…だから、…っ」

いかにも嬉しそうな笑顔を浮かべたマリナに見つめられ、ミシェルは言葉につまった。
まだそれを素直に言葉に出せるほど、彼の心は柔軟ではなかったから。
僅かに下唇を噛みながら、ミシェルは素早く身を起すと、片手で引っ張り上げたシーツを、マリナの上に覆い被せ、その視界を遮った。
慌ててシーツをはぎ取ろうとした所を上からおさえつけ、ミシェルはそのままマリナを抱きしめる。
「く、苦しいじゃないっ。こらミシェルっ、どきなさいよ!」
「うるさい、早く答えないと朝メシ抜きにするぞ!」
暴れるマリナをそれでも抱きしめるその美貌には、かつて誰もが―――そう、ミシェル本人ですら―――忘れ去った、無邪気さの片鱗すらが残る、輝く笑顔が浮かんでいたかもしれない。
(今はまだ、触れずにいておあげと言わんばかりの白い朝日に照らされて、その奇跡はかき消されてしまった…。)

「やだっ、離しなさいよっ! 
あんたの顔ちゃんと見せないと、言わないわよっ。
目を見せて喋らない人を、信用なんかできるもんですか!」


ああ、この女は。


ミシェルはぎゅっと絞られるような胸の痛みに、瞳を閉じた。


目を見て喋る…彼を彼として、ミシェル本人として認めて向き合ってくれる人間が、ここにいる。




離したくない―――絶対に、離すものか!




体から吹き出しそうになる想いをどうにかおし殺し、ミシェルはそれでもマリナが逃げないよう、ほんの少しだけ腕を緩めた。
シーツの檻からやっとはいだしたマリナの顔は、起きぬけ時にも増して、ひどい有様になっていたが、ミシェルは気にも止めなかった。
抱きしめてくちづけの雨を降らせたい、この髪をといて美しく飾ってやりたい、この世の全てを遠ざけて、ずっと腕の中に置いておきたい―――止めどなく荒れ狂う甘い幻惑は、今までやったどんなドラッグよりも強烈で、果てしなくミシェルを恍惚とさせた。
とうとう気がふれてしまったのかもしれないと、一瞬頭を過りはしたが、目の前の夜色の瞳が、ミシェルに狂気という安住を与えはしなかった……。

「あぁ苦しかったっ! 
まったく、なんてことすんのよバカミシェルっ。
あんたみたいに性格歪みまくった人と一緒にいたいなんて思うの、あたしくらいなものよっ!? あ、言っとくけどね、ご飯はちゃんと食べさせてよねっ、…こら、なにボケッとしてるのよっ。
いい!? これが最後のチャンスと思って、あたしのこと大事にしてよっ。
わかったミシェル!?」


叫んだその時、ふわりと舞い上がった白い布にマリナは目を奪われた。


最後に見えたのは…目の前で泣きたくなるほどの微笑を浮かべていたのは…本当に、あのミシェルだったのだろうか。


そしてそれは、ふいに訪れた。


布ごしに、温かい唇が触れる。

子供がするような、おままごとのキス。

しかし今まで交わしたどんなくちづけよりも、温かく甘く優しいキス…。

いつまでもこうしていたいと、そう思う自分に、マリナは初めて気がついた―――。



「…いつまでアホやってんだよ、ほんとに朝飯いらないのか?」
いつの間にかミシェルの声が離れた所から聞こえ、マリナは慌てて顔を出したが、突然飛びこんできた光景に、再びシーツを被らざるを得なかった。
「あ、…あんたっ、なんでハダカなのよっ」
「肉布団はナマに限るってね。なんだよ、ずい分他人行儀だねぇ、マリナちゃん? 僕たちの仲じゃないか」
あのキスが幻だと錯覚するほど、ミシェルの皮肉げな口調はいつものままで、マリナはそっとシーツの影からたくましい背中を見つめた。
シルクのブラウスを羽織りながら、そうしてたたずむ端正な横顔は、朝日にまぶしく照らされて、安らいでいるように見えた。
白金の髪は光をはらみ、まるで後光のようにミシェルを飾り、それはさながら美しい聖画のようだった―――。
しかし、身支度を終えたミシェルがベッドを離れ様、ふとこぼした言葉は、朝日の降り注ぐ部屋の温度を奪った。







「―――初めてだ、白い腕が現れなかったのは…」



呼び止めようとしたマリナの声は喉から出ず、僅かな安息にひたるミシェルの背中に、―――届くことはなかった。






† † † † † † † †
アリオク(堕天使 アリオーシュ)
ヘブライ語で、「猛々しい獅子」あるいは、「獅子の如き者」の意味。
黒いコウモリの翼を持ち、左手に炎を上げるたいまつ、右手に血の滴る斧を持つ姿で描かれる。
のちに、「復讐の魔神」とも呼ばれ、悪魔として扱われるようになった。
自分を雇った者の個人的な復讐にのみ、手を貸す。 (ミルトン”失楽園”より出典)








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