2011/04/07

epi:5 欠落



パートマリナ コジカ


思考が閉ざされ感情がまとまらない。
何事にも変えがたい愛しさが込み上げるのに、同時に泣き叫んでしまいたくなる。
どこかに、何か大事な物を置き忘れて来てしまった様な不安感が、焦燥感が常に付きまとう。
身体が重いわ・・・とても。
関節という関節が外されてしまったよう。
下腹部に鈍い痛みが残る。
腕も上げられないわ。
このまま一歩も動けない。
身体が分解してしまうと思うほど、あちこちが痛い。

でも背中に、重みと共に心地良い温もりを感じた。
このまま・・・眠ったまま何も考えず、この温もりの中に溶け込んでしまいたい・・・そう思った。

―――奈落の底に突き落とされた様な感覚に襲われて、マリナは失っていた意識を取り戻した。
眠りを解き、その目を覚ます。
むき出しの肌に、初冬の朝独特のしみ込むような寒さを感じる。
窓からは一筋薄く、朝の白い光が差し込んでいた。
「・・う、ん・・・」
目をうっすらと開け辺りを見渡そうとすると、とても重い筋肉質の温もりが、うつぶせた自分の背中にのしかかっていた。
伸ばされた長い腕が、つたの様に身体に絡みついている。
身体中まるでレイプされたかの様なアザになっていた。



あたしは昨夜一体どうしたのか、はっきりとは思い出せない・・・。

「そう、この人は・・・」
マリナはそう呟き、ギシギシと痛む手をそっと上げて、乱れた白金髪を掻き分けてみた。
あらわになったその美貌を間近に見て、ハッと息をのむ。
汗でその絹のように滑らかな白金が、額に張り付いている。
そうだったこの人は・・・


死に似た深い眠りから覚めた時、自分がいるここは何処なのか、自分が何者なのか、何をしていた人間でどんな想いを持っていたのか・・・
それら自分に関する記憶を、すっぽり全て失っていた。

必死に思い出そうとすればするほど、その側からどんどん想いが抜け出していってしまう。

頭が痛い、焦りで眩暈がする・・・。

不安から泣き叫んでしまいそうになった時、私のいた寝室のドアが開いて・・・一人の男が入ってきた。
「目が覚めたようだね、マリナ。僕はね、君に会えるのをずっと待っていたんだよ。」
「・・・マリナって・・・?
何故そう呼ぶの。それはあたしのことなの? それにあなたは誰? あたしとどういう関係なの?
ここは何処よッ、あたし何も覚えていないの・・・何も思い出せないのよ。
頭に靄がかかってしまった様に!!」
「・・・まだ君の身体の具合は悪そうだね。
そう、君の名前はマリナと言うんだ。
君はね熱を出して、この3日程眠りっぱなしだったのさ。
今何も思い出せないのはね・・・その熱のせいさ。
でも心配は要らないよ。僕がいつも君についているから。
なぜなら僕はね、君の夫なんだよ。」

「・・・・お、夫ですって・・・!?
あたしたち結婚してたの? あたし全然思い出せないわ・・・何も」
「いいんだよ。少しずつ僕との生活に慣れてくれればいいから。別に焦らなくてもいい。君が思い出せなくても、忘れてしまっていても、僕は変わらず君を愛しているんだから。
気にしないで・・・でも、ずっとここにいて。」
そういう男の言うままに、一緒に暮らしてきた。
疑う気持ちが全くなかった訳ではなかった。
なにしろ何も思い出せないのだから。
少しでも思い出そうとすると、それを阻止するかの様に、激しい頭痛と眩暈が襲った。
この状態で他の所に行くことは到底無理に思えたし、そもそも<帰る場所>が無かった。


そうするより他に―――どうすることもできなかった。









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