2011/04/07

epi:6 月が見ている



パートミシェル P


「ン…シャル、ル…」

ミシェルは月明かりに晒された幼い顔立ちが、自分の与える苦痛に歪む様を存分に堪能していたが、その言葉がこぼれた瞬間、世界の全てが凍りついたように感じた。


弛緩していた思考がキリキリと絞め上げられ、心臓が拍動を止めたかのように圧迫された。

ふいに止まったミシェルの動きを不信に思って目を開けた途端、マリナは自分の口から、まったく覚えの無い名前が漏れたことを、信じられない気持ちでふり返っていた。

今のは・・・一体誰の名前なの?

だがそんな考えは一瞬にして吹き飛んだ。
自分に覆いかぶさる鋭利な美貌の夫が、凍りついたように・・・まるで絶望の淵でも覗き込んでいるかのような瞳で、自分を凝視している。
どんよりと不穏な灰色を宿して、全ての感情の抜け落ちている空虚な瞳で。
「ミ、ミシェル・・・あたし、今ヘンなこと言・・・」
怯えたようなマリナの言葉で、彼の感覚が怒涛のごとくに押し戻された。
止め様もないほど激しい嫉妬、怒り、独占欲、そして絶対だと信じていた自分の能力への揺らぎ。
あの薬を使って消した過去の記憶は、決して戻るはずなどないのに…どんな手を使っても。

それほどまでに・・・あの男がいいのか―――!?

意識のどこかが外れたミシェルは、ほとんど無意識に、その繊細な指先を、迷わずマリナの首にからめていた・・・強く。



「ミシェ・・・くる、し・・・」


「苦しい・・・? 
お前より僕の方が何倍も苦しいさ・・・ねえマリナ・・・どうすればいいんだ、お前なら教えてくれるだろ・・・ここから抜け出す方法を・・・出口の無い、この永劫の闇から這いだす方法をさ・・・」



「ミ、・・・放し、て・・・っ」




ふ、と首もとの束縛がなくなると、マリナは激しくあえいで、呼吸を取り戻そうと大きくむせた。
かすれる意識で、呆然とたたずむ夫・・・を見つめる。
あたしは一体・・・この人とあたしは・・・一体どういう関係なの? 
本当に、夫婦・・・なの? 
わからない、全てがもやのかかったようにはっきりしなくて、でも心のどこかではそれを肯定している部分がある。
この繊細な容貌にも、白金の美しい髪も、確かに馴染んだもの、そう確信があるのに・・・どこがが違う。
なにかが…違うと、誰かが叫んでいる。
透明な澄んだ声が、耳の奥でこだましている。
ああ、頭が変になりそう…!
ようやく人心地ついた時、突然強く抱きしめられた。
というよりは、すがりつかれたといった方が正しいかもしれない。
あやうく命を奪われかねない目に会わせた人間が、今、細かく震えて自分にすがりついている。
まるで悪夢に恐怖する幼子のように。

マリナは嫌悪感や戸惑いも浮かんだが、一番大きかったのはやはり慈悲の心だった。
尋常でないこの怯えには、自分の感情などささいなものに感じるほど、それほどこの男から漂う雰囲気は、世界の全てを凌駕していたから。

おかしいわね、たった今殺されかけたっていうのに…。

マリナはそっと手を上げて、細かな光を放つ絹のような髪をすいた。
見上げれば、全ての真実をあるがままに、ただ黙って見つめている月が浮かんでいた。
冷たい光を放ちながら、孤高に輝く月が、そんな不毛な自分達を、容赦なく浮かび上がらせていた。

あんたは…みんな知っているんでしょ? 
なぜだかそんな気がするわ。
それにどこか懐かしい…あんたは、”誰かに”似ている…。
それは…

思考はそこで途絶えた。

ふいに起き上がったミシェルが、その光をあっという間に遮断してしまったのだ。
闇の支配する空間で、マリナは低く響くバリトンの声を聞くともなしに聞いていた―――。



「僕だけ見ていればいい……僕だけ」






パートミシェル コジカ


あの男から何もかも奪ってやりたかった
ただひたすらに復讐と憎悪を積もらせて
それ以外に何もなかった
それに縋らなければ生きては来れなかった
それだけが―――唯一僕に与えられた生きる糧だった
胸の中にスッポリ埋まって眠る女を見つめた
近づかなければよかったのだろうか

侵してはいけない天使だった

その存在に気付かず出会わなければ良かったのだろうか
慈悲の光に照らされてみたものは
自分の悪魔のように醜悪な本性だった
容赦なく彼女の全てを貪った
決してここから飛び立ってはいけないように
めちゃくちゃに壊してもまだ全然足りない

この夜初めて積年の思いが全て満たされたはずなのに
つい先ほどわずかにもれた女の呟きに我を忘れた
決してもう自分からは離さないと誓ったのに

この世からも奪い去ってしまいそうになった
どうしても全てを手に入れることが出来ないのなら・・・

せめて誰の手にも触れさせずに奪ってやろう

そう、思った

全くもって子供じみた考えだと我ながら笑った
同情なのかもしれない、だがそれでも限りない慈しみで
こんな自分をも包み込んだ天使
あの男が執着し続けるのはこの感覚なのかもね
「ねえ、マリナ。
君の何もかもが壊れてしまってもね、僕はもう君を絶対に離しはしないよ・・・」
そういってミシェルは意識を失った女に唇を這わせていった。
君の笑顔が向けられるのは自分でありたかった

君の笑顔に救われたいと切実に願った魂

僕は君にだけは降伏するよ

決してもう譲ることはできないけれども

決して揺ぎ無く、強く信じさせてほしい

始めから全ては狂ってしまっているのだからと







読んでくれてありがとう


0 件のコメント: