2011/04/07

epi:8 あやまんなさいよ



パートマリナ&ミシェル P


あれはいつのことだったか・・・マリナはミシェルと暮し始めた当初のことを思い返していた。

「・・・なに見てるのよ・・・」
「フン、次はどんなまずいものが出来るのかと思ってね。僕が餓死したらお前のせいだぞ」
「そう思うんだったら手伝うなり、出来たものでも買ってくるなりすりゃあいいでしょうが!」

「いやだね、マリナが作ったものじゃなきゃ食べない」
白金の髪をひるがえし、冷たい表情でぷいと横を向いた自称夫に、マリナは心底腹がたった。


今日の昼食を作るのは、実はもうこれが三度目だった。
一度目は口に合わないと言ってひっくり返され、二度目は見た目が悪いと床にぶちまけられ、怒りにまかせて出ていこうとすると、辛辣な呪縛の言葉が容赦なくからみつく。

そんな状態で外へ出て、どうするわけ? 
ここは記憶喪失の異邦の女が、一人で生きていけるほど甘い場所じゃないよ。
少なくともここにいれば、命の保証はある・・・

なあマリナ、僕たちは歩み寄らねばならないんだ。

―――いや、”お前は僕に生かされている”んだよ。
いい加減わきまえなよ。


わかってるの、マリナ

お前は僕のそばにいなきゃいけないんだよ

お前は僕のそばを離れちゃ生きられないんだ

お前は僕がいればいいんだから

お前は僕の側じゃないと生きていけないんだ

”わかってるよね”、マリナ



こだまするミシェルのバリトンの声が、マリナの脳の中にべったりと張りつき、考える力をどんどん奪っていく。
おかしい、こんなことくらいでへこたれる自分ではないのに。
そう思うのに、繰り返されるミシェルの声を聞くだけで、全身にびっしりと冷や汗が浮かび、割れ鐘のようなひどい頭痛がマリナを襲う。
やがて全ての思考力が奪われたように、頭に霞みがかかる・・・。

ああ、あたしがここにいるのは”当たり前”なんだ。
ここにいなきゃ、”いけない”んだ。

マリナはふらりと立ち上がると、鍋の前に立った。
「そうそう、おりこうだねぇマリナちゃん」
ミシェルは獲物を手にした猛禽類のように、底冷えするような微笑みを浮かべると、すいと身を翻し窓辺に立つ。

ポケットから取りだした小ビンを光に透かしながら、輝く真珠色の粉末を、うっとりと見つめた。

「君は天使になったんだよ、僕だけのね。
素晴らしいこの夢の薬で、君は”天への扉”をくぐって羽根を得たんだ・・・君にはもう何も必要なものはない。
そして、君の羽根を奪うも引き裂くも、僕次第・・・フフ」

ミシェルはそう呟くと、食卓に並べられたマリナの手料理に、次はどんな文句をつけてやろうかと思案し始めた。



「―――ああ、まずかった。こんなマズイもので飢えをしのいでいるなんて、僕は不幸だな。そう思うだろ、マリナ?」
「・・・あんたって徹底的にひんまがってるわね。
覚えちゃいないけど、今まであたしの会った人の中でも、最悪の部類にはいるでしょうね、きっとっ。
そりゃあたしの料理はイマイチかもしれないけど、そこまで言われると、温厚なあたしでもいい加減頭にくるわっ!
・・・はい、これならモンクのつけ様もないでしょっ、どーぞ!!」
マリナは下げた皿にかわって、ミシェルの前にボールにはいった赤い果実を、憤然と置いた。
瞬間、すうっと表情を失ったミシェルが無感動に呟く。
「なんだよ・・・これ」
「なんだって見てわかんないの!? イチゴに決まってるじゃない! 

”あんた好きだったでしょ”!?」

瞬間、はねのけられたガラスボールが宙を舞い、壁に当たって砕けた。
透明なガラス片と赤い果実の色が弾けて、あたかも血しぶきのようにマリナの足元に散らばる。
「なんてことすんのよ!」
「お前こそどういうつもりだ!! 僕がいつそんなもの好きだって言った!」
「お、怒らなくたっていいでしょっ。あたしは前みたいな記憶がないのよっ! あんたのことだってさっぱりわかんないのにっ!」
マリナは唇をかみしめ、ぶるぶると震え出した。
理不尽なミシェルの態度、自分のことすらつかめない極度の不安、数分先の未来ですら、今のマリナにとっては、手さぐりの暗闇に等しいものだった。
うつむきぎゅっと閉じた瞳から、ぽたぽたと涙がしたたる。 
「本当に夫婦なの、あたしたち? こんなの変よ、なんであたしはあんたを選んだのかしら?」
「・・・僕たちの関係はね、俗に言う略奪愛というやつさ。最高だろ?」
「―――なによそれ。じゃあたしはあんたの事愛してて、こうなったわけじゃないの!? 
あんたはあたしの気持ちも考えずに、無理やり関係を結んだってわけ!? 
変よ、おかしいものっ、こんな夫婦なんてないっ! 
だってあんたのいいとこってどこよっ? 
惹かれるものがなきゃ、結婚なんてしやしないじゃないっ!? 
あたしあんたのいいとこなんて、ちっともわかんないわよっ!!」

瞬間、ミシェルは座っていた椅子を蹴り倒し、激情にかられたようにマリナの衿首をつかみあげると、小柄な体を人形のように、壁に強く押し付けた。

「僕はお前のそばにいたんだっ、もう長いこと! 

ずっとお前を見ていた! 

お前のやること、笑い顔、みんな知ってるんだぞ!!」

マリナは怒りに歪む青灰の瞳を、苦しい呼吸の中で睨み返した。

「だ・・・からなによっ、見ているだけで与えあわなきゃ、っ、支えあっていたわりあわなきゃ、・・・夫婦だなんて・・・言えないじゃない! 
あんたは・・・あたしに何を求めているっていうのよ! 
ミシェル!!」

血を吐くようなマリナの叫びに、ふいにミシェルの手が緩む。
壁際でずるずるとへたりこんだマリナは、荒い呼吸を繰り返しながら、目の前で呆然と立つ美貌の夫の姿を見上げた。
白金の髪の間から、僅かにのぞくその繊細な顔。
眉根を寄せ、細かく震える迷子のような瞳。

何かが一枚剥がれただけで―――この戦慄すら覚える高飛車な男は、あっという間に豹変する。

なんなの、一体・・・この人は。

ふらつく足取りで起き上がると、マリナはミシェルを押しのけてドア口へと向かった。

「・・・行くな」

背中に投げられる低い声。

「行くな、マリナ!」

知らない、やっぱりこんな声、知らない。

「行くんじゃない!」

マリナはゆるりとふり返ると、ドアへと寄りかかりながら、髪をふりみだした美貌の迷子を見つめた。
何かが抜け落ちている、この人は。
「・・・そんな言い方、あたしは認めないわよ。
悪いのはあんたよミシェル。
あやまんなさいよ、じゃなきゃあたしはここにいたとしても、あんたなんか受け入れない。
いくら体を奪われたってかまやしないわ。
あたしの心に、あんたなんか入れない・・・!」
ミシェルと離れただけでもひどくなる頭痛を抱えながら、それでもマリナはまっすぐにミシェルを見据えた。
その眼差しに耐えきれないように目を背けたミシェルは、握った拳で壁を殴りつけた。
一瞬にして血に染まる繊細な手。
「マリナ・・・お前は羽根を失ったら・・・死ぬしかないんだぞ」
「ミシェル、あんたの声なんて怖くない、羽根なんていらない、死ぬのだって怖くない。
そりゃこのままなんにもわからず死ぬのは・・・とってもやだけど、あんたに踏みにじられながら生きるのは、もっといやよっ」
「そんなに・・・僕が嫌なのか」
「あんたがいやなんじゃないの、あんたの態度がいやなのよ。
ミシェル、あんたが人間ならできるはずよ、自分を認めてもらおうと真摯な行動をとることも、優しさを分け与えることも」
「はははっ・・・反吐が出るね、そんなこと! 
僕はそんな存在すらお目にかかったことがないぜ、あいにくだったな」
「あんたがどんな目に会って生きてきたか知らないけど、あたしにはもう限界なのよ。
このまま外に出てのたれ死ぬのと、そんなあんたのそばで生きながら死ぬのと、なんの違いがあるっていうのよ」
「―――駄目だマリナ、お前だけは絶対死なせないぞ。
お前がいなくなったら・・・あいつへの復讐は終われないんだ。
お前は・・・僕のそばにいなければ、いけないんだ!」
「何言ってるの? 今はあたしとあんたの話しをしてるのよ! そんなことどうでもいいでしょ!」
「なぜだ、どこから間違えたんだ、なぜ」
「ミシェル!」

傾きかけた日の光が、砕けた全てのものへ降り注ぐ。

ガラス片へ赤い果実へ、滴り落ちた涙へ、鮮血へ。

崩れそうな不安定な心へ、亀裂の入った冷ややかな要塞へ・・・。

「・・・らない。どうすればいいかなんて、知らない」

艶を失った低い声が、死にかけた空間にこぼれた。
マリナはゆっくりと斜陽にたたずむミシェルに近寄ると、うつむく天使の頬を、ぐいと自分に向けた。

「ここ、あんたに絞め上げられて、痛かったわ、苦しかったわ。
あんたが壊したガラスで手を切ったわ、見て血が出てる、痛いわっ。
見てっ、あたしの目を! 
あんたに投げつけられた言葉と態度が、痛かった、とってもっ、心が殺されそうだった!」

呆然と見つめ返す青灰の瞳。
この瞳は一体いつ、こんなに無機質になってしまったの?
記憶の残滓をかき集めるように、いつしかマリナはかつて見ただろう、懐かしい染み入るような美しい瞳を思い出していた。
そして、それを取り戻そうと、必死に叫んだ―――。

「あんたも痛いでしょ、この手。
バカね、あんなに力任せに壁を殴るなんて。
痛いわねよね、こんなに血が出てるものね。
なぜこんなことをしたの、あたしのせいなの? 
あんたの思い通りにならないから? 
でもあたしは人形じゃない、血の通った人間なのよ。
ミシェル、この傷はいつか癒えるし血も止まるわ。
だけど心の傷はどうやってなおすの? 
あんたに傷ついたあたしの心はどうすればいいのよ。

そしてあんたの心の傷は―――あたしに治せるの? 
だからあたしが必要なの、ミシェル!?」

怯えたように僅かに首を振って、ミシェルは後ずさった。

「逃げないでっ、ようは簡単なことなのよ。
あたしにそばにいて欲しかったら、こう言えばいいだけ。
ごめんなさいって、痛くして悪かったって言えばいいの。
それが優しさで、いたわるってことなのよ。
なんでそんなことをするかわかる? 
一緒にいたいからよ。
その人の心に入れてもらって、一緒に笑ったり悲しんだりするために。
許しあわなきゃ一緒になんて生きて行けないわ。
ましてや夫婦なんて、そこから全てが始まるんじゃないのかしら。ね、ミシェル?」
「・・・じゃマリナ、お前も謝れ」
「なっ、―――なんであたしが謝んなきゃいけないのよっ」

マリナは目をむいてはるか頭上のミシェルに向かって叫んだ。
頬が夕日で赤く染まり、いつもの鋭利な雰囲気が消えて、まるで少年のような表情が見える。

「―――僕のこと嫌だって言っただろ」

消え入りそうな声が絶望の響きをはらんで降って来る。

「あ・・・あんたも大概ワガママね!! 
あ~あったまきたっ。こっちはたくましいあんたに殺されかけてるっていうのに、あんたはそんなことを気にしてたわけ!」
「なんだよっ、それが優しさだってお前が言ったんじゃないかっ。言った方が先に謝れ!」
「ば―――バカじゃないのっ、あんた! もういいっ、もう出てく!」
「マリナ!」

慌てて抱きしめられた背中には、いつもの得体の知れない恐怖など感じなかった。
なぜかこみあげた笑いに、マリナは久しぶりに大きく深呼吸をした。
ずっとためこんでいた、暗い思いを入れ替えるように。

「あんたって子供みたいね、ミシェル」
「信じられない・・・お、前みたいな女」
「ほら、ごめんなさいはっ?」
耳にそっと寄せられた、吐息混じりのかすかな言葉が・・・遠慮がちにマリナに届く・・・。

(・・・、る・・・かった)

信じられない思いでそれを聞き入れたマリナは、嬉しさと驚きで息をのんだ。
ふいに背中の拘束がとけ、風のようにミシェルは部屋を出ていった。
夕闇が優しく染めるその空間で、マリナはひとり静かに、微笑んでいた―――。







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