2011/06/02

第1手術室 7:32pm

「バイタル(生体情報)は!?」
「血圧150の100、BPS(バイオフィジカルプロファイルスコア)は7、胎児心音80」
「マックロバート操作でも児娩出できませんでした!」 


おかしい、出血が多すぎる。
腹部に強度のデファンス、継続的な強い腹痛―――オレは処置をしながら、常位胎盤早期剥離症の可能性を考えた。
これは胎児と繋がっている胎盤が、なんらかの理由で児娩出より前に、完全または不完全に剥離されることによって引き起こされる症候群のことだ。
判断が非常に難しい症状だが、放っておくと、母子共にたいへん危険な状態となる。
これの基本的な治療法は、胎児の迅速な分娩。
合併症であるショック症状は出ていない、しかしDIC(血液が固まりにくくなる状態)を警戒する必要はあるな。
オレは素早く判断すると、準備にかかった。
「カイザー(帝王切開)に変更する」
「…、…あ、…赤ちゃん、は…!?」
その時、分娩台の上のイレーヌが、今にも気を失いそうな意識を、必死に引き戻すように切れ切れに言葉をつぶやいた。
「大丈夫だ、気持ちを落ち着けてイレーヌ。隣でジベールも待っているぞ。もう少しだ、頑張れるな」
「ええ、ええ…! 私が頑張らなきゃ、彼女に、申し訳、ないもの…!」
彼女? 
一瞬そちらに意識が割かれたが、オレは胎児を速やかに摘出すると、口腔と鼻腔内を吸引をさせた。
―――反応なしか―――!?


次の処置に移ろうとしたその時、小さな肉塊に―――命が芽吹いた。


弱々しくも、雄々しく産声を上げたその新しい命に、張りつめていた空気がとけて、広がっていった。
それは、ここにいる誰の心にも穏やかに波紋を広げ、緊張の後の安堵の笑顔を、皆の顔にゆるゆると飾った。
「ああ、ああ、神様―――!! ありがとうございます…、ありがとう―――!」
イレーヌは無事に生を受けた我が子に頬ずりしながら、美しい涙を、ひたすら流していた。
アプガースコア(新生児の状態を評価する基準)も9と安定した値も出、正常が確認された。
幸い母体も子宮摘出の必要もなく、オレは手早く閉腹処置をした。
もう、心配はいらないだろう。
「信じられない。私も長くこの場所にいるけど、こんなに早く緻密で繊細な手技を見たのは…初めてだわ。若いのにあなたとんでもない人のようね。見て、なんて可愛い天使なの。
ありがとう、今日は最高の日だわ」
宝物のように赤ん坊を抱えた大柄な年配の助産師が、目じりをにじませながら、オレにあたたかい視線を向けていた。
グローブをはずしながらオレは軽くうなづき、術後いつも感じるカタルシス以上のものを、目の前の小さな命から受け取っていることをかみしめていた。
すべての処置を終えジベールを呼ぶことを許可し、その光景をまぶしく思いながら、オレはただ、マリナのことを考える。


今日、新しい命がまた、この世に産み出されたよ。
かつて君も、こうして生を受けて、今オレの前にいるんだね、―――マリナ。


「先生、本当にありがとうよ。もう、…もう、言葉もないよ。あんなこと言ってた自分が恥かしい。
―――本当に、ありがとう、先生はオレ達一家の救い主だ…! ありがとう…!」
イレーヌの横に移動ベッドをつけて、ジベールはまっすぐにオレを見ながら、感謝の言葉を繰り返していた。
「お願いがあるんですが…赤ちゃんを、見せたい人が、いるんです。くじけそうになってた私を励ましてくれて…、見ず知らずなのに、ここまで付き添ってくれて。
ぜひ、その彼女に見せたいんです。それが今の私に出来る、精一杯のお礼ですから…」
診察したところ、新生児は体重も2500g以上ありNICUに入院の必要もなさそうだった。
すでに産後の処置も終えていたので、手短にとの許可を出し、母親の希望を叶えるべく新生児を婦長に預けた。
彼女がドア向こうに消えた途端、病院には不似合いなほどの華やかな叫声が微かに聞こえ、オレは吐息をついたが、今日は煩わしさは感じなかった。
しかし生を喜ぶ純粋な気持ちが、これほど高まったのは、近年稀に見ないものだった。
それはやはり、オレにとって唯一無二の大切な存在が出来たからなのだろう。
出産というものが、これほど胸に迫るとは―――オレは新たに感じる新鮮さや、こみあげる愉悦の気持ちに驚きながら、もしこれが自分の立場であったらと、珍しく感傷的な想像をしていた。


もしこの出産が―――オレとマリナの子供であったなら。


今まで感じたことのない…足の浮き立つような底知れぬものが、オレを取り巻いた。
一体、どういう世界が待ち受けているのだろう。
この気持ちが喜びなのか、果して恐怖なのか…今のオレには、理解出来ない。
それは君が導いてくれるのだろうか、―――ねぇ、マリナちゃん?


そんなことを思いながら、ふと視線を上げた時にとらえた時計の文字盤は、午後8時をとうに回っていることを知らせていた。
なんてこった、もうこんな時間だったとは!
オレはカルテに経過と指示を書きこみ、引継ぎのドクターに伝達を済ませると、オペ室を出ようとした。
「ち、ちょっと待ってくれ先生! 貰って欲しいもんがあるんだっ」
「そういう行為は禁止されている、気持ちだけで結構だ」
急ぐオレを、ベッドの上から必死に呼び止めるジベールに振り返りながら、ドアに手をかけた。
「違う、そんなんじゃないよっ。ただのお祝いさ! この子以外の、オレの最高傑作なんだ。そこのバスケットを開けて見てくれよっ」
オペ室の通路に、彼が後生大事に抱えていた籐のバスケットがあり、仕方なくそれに手を伸ばしたのだが、近づいた時に、鼻孔をくすぐる素晴らしい香りに気付た。
開けるとやはり、そこには大量のバラが横たわっていた。
51年にメイヤンで発表された、コンフィダンスという品種によく似ていたが、花の径が小さい。
どう見ても7cm以下だし、色も更に洗練されている。驚くべきは、まるで真珠を塗りこめたような美しい光沢があり、カラーは淡く優しく華やかなペールピンク、香りは甘く濃厚。小ぶりでも、半剣弁高芯咲きは完璧に保たれており、茎は細くしなやかだが、かなりの強度がある。
小さくも生命感に満ち溢れ、可憐で清らか―――その存在感に、オレは驚きを隠せなかった。
ジベールがこれほどの育種家とは。
「今度のバガテルの、国際コンクールに出すまで秘密にしておこうと思ったんだけど、こんなにめでたい日に隠しちゃおけないよな。今イレーヌとも相談したんだけど、世話になったっていう小さな女の子の名前をつけようと思ってね」
「ほう、どんな名だ」
「プティ・マリア、…小さな聖女ってのにしようと思うんだ、どうだい?」
「―――いい名だ、このバラに相応しい。それで、肝心の子供の名前は決まったのか?」
とたんにジベールは顔を輝かせて大きくうなづいた。
「ああ、聞いてくれよっ、”マリアンジェ”だ! オレたちに奇跡を与えてくれた天使だからな、これしかないだろ!」
自信満々で言うジベールに、オレは思わず失笑がこみあげてしまった。
なんと大仰な名前だ、聖母と天使を頂くとは……せいぜい名前に負けないようにするんだぜ。
今日の生まれでも、しとやかに育ってくれればいいけどね。
なにせ、素晴らしい前例がいるからな、同じテツは踏まないでくれよ。―――男泣かせになるぞ。
オレはバラを見ながら、マリナのふくれ顔を思い浮かべていた。
「このバラはありがたくいただこう。だがジベール、しばらくは安静だからな。調子にのって母子病棟に入り浸るなよ、入院一ヶ月、全治二ヶ月のコースなんだ。
それと真面目にリハビリをやらないと、子供との生活も伸びることになるぞ。まったく術後こんなに喋る患者は初めてだね。もう病室に行くんだ、明日また経過を見に来る」
「オケ、わかってるよ。あんたにゃもう頭が上がらないさ、なんだってするよ!」
なんでも、か。
浮かれて喋るジベールに、オレはここぞとばかりに書類を差し出し、よく読んでサインをするように言った。だが彼は、すぐさまペンを走らせると、もう一度感謝の言葉を述べて、看護婦にベッドを押されて部屋を出て行ってしまった。
この書類は、死後の献体を認証するものなのだが―――まあ、本人が”納得して”サインしたんだ、いつか心おきなく解剖させてもらうとしよう。
それにこのバラの研究でも、当分は暇つぶしが出来るだろう。
オレは花と書類を持って、上機嫌でロッカー室へと向かった。






「シャルル!? シャルルじゃないか」
懐かしい友人の声に、オレはエレベーターから出たところを迎えられ、そちらに視線を向けた。
「カーク、久しぶりだな」
挨拶をしようと口を開きかけた時、思わぬ言葉がオレを動揺させた。
「なんでマリナを一人で帰したんだよ!?」
「―――マリナ? マリナがいたのか!? いつ出ていった!?」
「20分くらい前かな。地下鉄で帰るって」
まったく君ってやつは、とことんオレの予想を覆してくれる―――!!
訳を聞くのももどかしく、オレはカークを振り切って闇の支配する街へと走り出た。





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