2011/06/02

聖ファロ病院 6:09pm


やっとたどりついたこの病院にジベールを収容すると、オレはすぐさまレントゲン検査を命じた。
ここの院長とは、囲碁を通して懇意にしていたので、執刀許可等を得るのは造作もないことだった。
あれから何度も屋敷に電話を入れているのに、マリナからの連絡はないままだった。
だが、こんなことはしょっちゅうなので、それに慣らされていく自分にも、腹が立つ。
心配と苛立ちが胸の内でせめぎ合い、それによって乱される思考に、いつもの静かな世界は訪れなかった。
それは憂鬱な吐息となって、オレの口から、こぼれ出ていく。
とにかく早く事を済ませよう。


「なんか頭がぼうっとするよ」


大腿骨の骨幹骨折では、およそ500~1000mlくらいの内出血が予想される。
ましてや移動にかかった時間や振動が、ジベールの体力をかなり奪っているはずだ。
まあ自業自得だ、この際我慢してもらおう。
案の定、大腿もかなり腫れあがってきていた。
オレはこれから上がる絶叫を避けるために、レントゲン室を早々に出、オペの準備の為に術場へと足を向けた。
3階の3番手術室に入り、手早くオペ着に着替えると、ヴァル・ド・グラースから持ってきた備品を再点検した。
やがて術前処置の済んだジベールが運び込まれ、それと同時に、招かれざる客までがついてきていた。


「私の許可も取らずに、勝手なことをしては困る! 誰だお前は!?」


聞き覚えのあるしゃがれ声に振り返ると、そこには数人の医者を従えた、金フレームの眼鏡をかけた初老の男がいた。
……今日は厄日なのだろうか、ねぇ、マリナ。
それとも君を置いてきてしまった、これは、オレへの罰なのかい?
「これは―――クロード・エブラール外科部長、許可も取らずにとは心外ですね。私は院長のお墨付をいただきましたよ」
こんな時に面倒な人物に会ったものだ。
彼とは1ヶ月前の学会の質疑応答で、かなりやりあってしまい、それ以来オレは目のカタキにされていたのだ。
マスクを取ったオレを見るや否や、エブラールは目をむいて、骨ばった指でこちらを指した。
「シ、シャルル・ドゥ・アルディ! なぜお前がうちに…!」
「先ほど起きた、駅前の事故現場に偶然居合せましてね。患者の希望で、こちらに寄らせてもらったんです」
ふと視線をずらすと、部屋の端に所在なげに一人の看護婦が、手にした封書とオレとに、交互に視線をさまよわせていた。
オレは構わずそちらに手を伸ばし、出来あがったレントゲンを受け取ると、蛍光灯の光にかざしながらそれを見た。
所見通りの骨幹の複合骨折、しかも単純な横骨折だ。だいぶずれてしまっているが、観血的整復で充分いける。この程度なら15分もあればオペを終了できるだろう。
しかし―――そこに写る影に、オレは胸の高鳴りを覚えた。
早く見てみたい、偶然の造り得た人体の神秘を。
「あ、あのドクターアルディ、あの患者さんの牽引は……」
血管や神経の走行は、一体どうなっているのだろう。本当に完璧に反転しているのだろうか。
「あの、ドクター? 牽引を…」
「―――ん。ああ、牽引は行わない、すぐにオペに入る」
「牽引をしないだと!? 馬鹿を言うな、そんなに急を要する症状でもあるまいに! おい君、直達牽引の用意をしなさい、それとこの男には引取ってもらえっ」
なんだ、まだいたのかこの男は。
オレは苦渋の表情でわめき散らすエブラールをねめつけ、どちらの指示に従ったらよいかと、困惑する看護婦を制止した。
「あなたこそ勝手なことをしないで貰おう。私は傷病者本人の、たっての要望で処置にあたっているんだ。それに逆らって医療裁判でも起されたら、困るのはあなたではないのか? 
それともまだ邪魔をするようなら、私にも考えがありますよ。この場で病院の権利を買取り、理事の立場からあなたを罷免することも可能だ。不名誉なレッテルを張られてもいいのですか?」
「き、……汚いぞ!」
オレは真正面から彼に向き合って、きっぱりと言った。
「あなたこそ、私を失望させないでいただきたい、ドクターエブラール。
前回の学会でのあなたとのディスカッションは、少なくとも退屈はしなかった。結果、あなたの自尊心を傷つけてしまったのは不本意ですが、現場でその遺恨を持ち出すのは筋違いです。
個人的なクレームでしたら、私個人に願います。
我々の為すべきことは、こんな所で言い合いをすることではないはずですよ。
牽引の事はご心配なく、私の研究では、骨折時の牽引の有効性は証明されませんでした。牽引代金分、病院側に損をさせますがね。
―――もうよろしいですか、時間が惜しいので」
エブラールの神経をさかなでしたのは、こめかみに浮き上がる血管が雄弁に物語っていたが―――やがて彼は諦めるように、重い吐息をついて白衣の衿を改めた。
その様子にオレは少し驚いて、彼を見返した。
「次の学会では負けんぞ、いいか、シャルル・ドゥ・アルディ」
真っ向からの挑むような視線の中に、彼もあの質疑の有用性を認めているのだということを読み取り、オレは、呆然とした。
それはつまり、彼はオレを認めている、ということなのか?
こういったふとした時に、オレは自分の内面が、過去とは確実に変化してきていることを見せつけられる。
これが―――周囲に目を向ける、ということなのだろうか、マリナ。
まだ掴みきれない己の内なる軌跡を追う内に、エブラールは白衣を翻し、オペ室を出て行った。


「……なあ先生~、日曜大工でも、やってんのかぁ?」
腰椎麻酔をしたジベールが、夢に浮かされたようにしきりに話しかけてくる。
整形術は確かに、人体の工事という表現がぴったりかもしれない。ドリルに骨ノコといった機材、それに伴う音も大工仕事と聞き間違うほどだ。
しかし、今はそんなこと、どうでもいい。
目の前に広がる未知の世界に、オレは興奮を禁じえなかった。
なんと美しい光景、正に神のみが造り得る精巧な反転の世界が、今オレの手の内にあるのだ。
オペが始まるや否や、その術野に助手達の視線も釘付けとなり、鏡の使用を持ちかけられたが、もともと鏡面での術式は経験済みだったので、それは辞退した。
「記録はちゃんととってあるか」
「は、はいっ、そりゃもうしっかり!」
…あとでコピーを貰うとしよう。
整復を終えたあと、開発した新素材の釘を髄内に埋め込み、オレはイビキをかき始めたジベールの上半身に視線を向けた。
大腿ですらこれだ、内臓部分はさぞや驚嘆に値する視界がのぞめるのだろう。
この時のオレは、ジベールの胸部をY字切開したくて堪らなかった。
「噂には聞いていましたが、正に神の手というに相応しい腕ですね! 信じられません! 
この条件をこれだけの短時間で完璧に終わらせてしまうなんて、ああ、今日当直で良かった! 
ドクターアルディ…? ドクター!? 何か気にかかることでも!?」
隣で第1助手が興奮して喋る声にはっと我にかえると、オレはメスを握った手を、いつの間にかジベールの鎖骨に当てていたのだ。


―――危なかった。


処置も滞りなく終わろうとしていた時、オペ室の隅の内ドアから、一人の看護婦が慌ただしく入ってきた。
ここの手術場はそれぞれ独立した入り口があるが、内側は行き来が出来るように、全て繋がっているのだ。
入ってきたのは、どうやら向かいの1番手術室の助手らしい。
「どうした」
「はい、先ほど救急で運び込まれた産婦なんですけど、様子が急変しました。ギネ(婦人科)のドクターは、まだ連絡が取れなくて」
「カルテを見せろ」
カルテを受け取ったその直後―――、
「産婦って…、誰だ、おい先生!」
眠っていたはずのジベールが目を見開き、首を起してオレを凝視していた。
麻酔が効いていたはずなのに、たいした精神力だと感嘆する暇もなく、辿ったカルテの文字に、オレは一瞬息を呑んだ。
イレーヌ・ベルティーノ―――19歳
「まさかイレーヌじゃないよな。な、どうなんだよ!」
ろれつの回らないにも関わらずジベールは、顔を歪ませて懇願するような視線を向け、必死に声を張り上げていた。
妊娠37週、早産ぎりぎりのところだ。
「―――先生、オレなんかどうでもいい!! イレーヌと子供を助けてくれ、お願いだ!! 
頼む! あいつらはオレの生きがいなんだっ、頼むよ、先生ぇ!!」
ジベールの声には、先ほどの諦めのこもったなげやりさはなく、こちらが圧倒されるほどの力強さが込められていた。それは愛する者、守るべき者を取り戻した男の表情だった。
オレは一呼吸置くと、素早く目線をあげてジベールの真横に移動し、マスクを取り彼に言った。
「オレが必ず助けてやるから、安静にしていろ。
子供の名前は決まったのか? すぐに呼ぶから、もう考える時間はないぞ」
そうだ、今日この日に悲しみの涙など、流させるものか。


オレはあとの処置の指示をし、止めどなく流れるジベールの涙を最後に、第3手術室を後にした。





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