2020/04/15

~雨ふり1(※少々大人表現アリ)




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そぼ降る雨に濡れるパリ―――セーヌ河岸。



「マリナ急げ」
「ま、待ってよシャルル!」

人影もまばらなセーヌ河岸を、枝葉の茂る大きな木の下を目指し、走る二人。
「―――まったく、君に付き合うとロクなことがない」
「だってっ、せっかく買ってもらったこの長靴履いて、散歩したかったんだもの!」
「そうじゃないっ。橋の上から傘を落とすなんてバカなこと、子供でもやらないと言っているんだ! 下にペニッシュ(セーヌを運行する平底船)でもいたら、大事になっていたところだぞ」
「うう、はしゃぎすぎちゃったのは、悪かったわよぉ…」
「イソップ寓話の犬じゃあるまいし、だいたい、口から落としたボンボンを拾おうとすること自体がどうかしている。おかげでずぶ濡れだっ」
「そうぽんぽん怒らなくたっていいじゃないっ、謝ってるでしょっ―――わっす、滑る…ギャっ!」
走るシャルルの後方で、石畳で滑ったマリナが派手に転ぶ。飛び跳ねるドロしぶき。
長靴が片方脱げて、雨に濡れる石だたみに転がる。
立ち止まったシャルルは沈痛な面持ちで眉間を押さえたが、プラチナブロンドが一筋張りついた繊細な頬を吐息と共に上げ、長靴を拾い上げる。
そしてすぐにマリナに駆け寄り、手を差し伸べた。
「ケガは? …ないな。ほら立って、早く行くぞ。……どうした」
「ううう、だって~…シャルル怒ってるんだもん~」
頬にドロをつけたまま、涙ぐむマリナ。
「この長靴履けてうれしくてうれしくて…ちょっと羽目はずしちゃったのよ~。
前に街で見かけてちょこっと言っただけなのに、あんたがちゃんと覚えててくれたのが、どんなにビックリしたか…。
これ貰った時、箱開けて大好きなピンク色が見えて、あたし涙が出そうになったもの。
でもあんた忙しくて、なかなか履いたとこ見せられなくて…今日までずっとガマンしてたんだからっ。
初めて履くのは、シャルルと散歩する時にしようって決めてたから。
だから、今日やっとお休み取れて、嬉しくて、あたし…」
うつむくマリナにシャルルは淡く苦笑いを浮かべると、細い指をそっと上げて、マリナの頬のドロを拭ってやる。
「―――そうだね、今までかまってやれなくてすまなかった。
そのブーツもよく似合う。長靴を履く女の子が、これほどキュートだとは思わなかった。可愛いぜマリナちゃん、ガラスの靴のシンデレラより、ずっと魅力的だ。
…もう怒ってないから。ほら、可愛いほっぺが台無しだ、ああ…派手に汚したな」
「ドロドロで気持ちわるい~。あっ、でも長靴は無事ねっ、よかった!」
雨の中嬉しそうに長靴に足を入れ、ドロだらけになりながら明るく笑うマリナ。
その笑顔は、どんな晴れ空よりも澄んで輝いて…シャルルはまぶしそうに瞳を細める。
自分が贈ったものを、こんなにも大事に思ってくれているとは…雨にうたれる身体は冷えども、シャルルは、愛しさが胸を温めるのを感じた。
そうして、マリナをかばうように立ち上がりながら、皮肉げな微笑みを浮かべ、小さく吐息をつく。
盛大にクシャミをし、身震いするマリナ。
気温があがったから降った雨だが、やはり冬空の洗礼は厳しい。
「は、はっく、しょい!! さささ、サムイ……!」
「やれやれ、もう雨宿りも無駄だな。しかしいくらマリナちゃんでも、このままじゃ風邪をひきかねない」
「なによっ、いくらあたしでもって! …っくしょんっ」
「フフ。―――仕方ない、迎えはそこのB&Bで待つか」
路地の先にある、バックパッカーが泊まるような庶民的なプチホテルに目をやるシャルル。
「えっ、あそこ!? あんたがそんなこと言うなんてめずらしいわぁ、だから雨降ったのね!」
「…オレはこのままでも一向に構わないけど? 今流行している新型のライノ(風邪)ウイルスに君がかかってくれれば、この間開発した新薬の実験台にも使えるしね」
そう言って冷ややかに見つめられたマリナは、急いで首を振ると、我先にとその建物に向って走り出した。
後方で小さく笑いながらマリナに追いついたシャルルは、雨に打たれて冷えたその手を優しく取る。
今度はちゃんと手をつなぎ、ふたりはホテルへと足早に駆けていった。





家庭的な雰囲気のエントランスでタオルを貰い、シャルルは髪と手先をきちんと拭うと、宿泊名簿にペンを走らせる。
後ろで大きなクシャミをするマリナ。
ホテルの主に長靴を誉めてもらい、タオルの合間から満足そうに笑う。
それを横目で見ながらシャルルはキーを受け取ると、マリナを促しいったん中庭に出、指定された部屋へと向かう。
横切った中庭には、雨に打たれて輝くブルーベリーや、よく手入れされたハーブ類が整然と並んでい、ここが手入れの行き届いた快適な施設であることを示していた。
木彫りの手製プレートのかかったそのドアを開け、落ち着いたベージュのカーペットを踏みしめ、中へと歩みを進める―――と、ひと目で手作りとわかるキルトのベッドスプレットをあしらった、庶民的なオークのシングルベッドが2台、二人を迎えてくれた。
このパッチワークはおそらく、さっきエントランスでタオルを手渡してくれた、このホテルのオーナー婦人が、ここを訪れる旅人のために一針一針手縫いしたものなのだろう。
シャルルとする旅先で、こんなものに出会うことは滅多にないので、マリナはそのキルトとシャルルとを見比べながら、そのギャップに小さく笑った。
しかしさすがのシャルルも、今日ばかりは室内を一瞥しただけで、いつもの皮肉に満ちた批評は控えたらしい。
扉一枚隔てて、雨は音もなく、しっとりと降り続ける―――
ようやく得た安堵感に一息つくものの、しかし見知らぬその空間の空気に、いきなりは馴染まない。
なんとなく所在なげに、手にしたタオルで体を拭うシャルルとマリナ。
雨に濡れたマリナ。体に張り付いた洋服…透ける柔肌に目のやり場に困るシャルル…
雨に濡れたシャルル。うつむいた天使の頬に憂いの滴、濡れてさらに艶をましきらめく青灰の瞳、盗み見るマリナの鼓動は高鳴る…
意識しすぎて、ついに沈黙に耐えられなくなったマリナが口を開こうとしたとたん、盛大なクシャミをし、シャルルに唾を飛ばす。
「―――なんのためにタオルを持っているんだっ! この不潔女っ」
「な、なによ人をバイキンみたいにっ」
「レディとしてのたしなみどころか、いまだ一般常識すら身についていないのか君はっ」
「フンだっ、ガミガミシャルル! あんたの口は文句しか言えないのっ?」
「ことマリナに関しては、そうならざるを得ないだろう!? でなければ、一体誰が君の躾をするっていうんだ。礼を言われこそすれ、文句を言われる筋合いはないね」
「誰が口うるさいあんたに、お礼なんかするもん、です、か…は、は…ハック…!!」
むずかったマリナの顔面に、とたんに押し付けられるシャルルのタオル。
「まったく君の要領の悪さといったらないな、どうしたらこれほどボケっと出来るんだ。髪がまだびしょ濡れじゃないか」
マリナのタオルを奪い取ったシャルルが、滴のしたたる褐色の髪を柔らかく包み込む。
髪を痛めないように軽く叩きながら、手際よく水分を取っていく。
ふくれ顔のまま、それでも黙ってそれを受けるマリナ。
「チョンチョリンを取るぞ。世話の焼ける長靴のシンデレラ」
「そ、それぐらい自分でやるわよっ、おせっかいっ」
マリナは赤いボンボリを力まかせにひっぱるが、髪が濡れていてからまってしまい、なかなか上手く取れない。
濡れたジャケットを脱ぎながら、それを横目で見ていたシャルルが、見かねて手を貸す。
「ほら、このラグの上にのって…、ああ、もういい加減に長靴を脱ぐんだ! ちゃんと前を向けっ」
「―――シャルルぅ」
「…なんだ」
されるがままに髪の毛を拭いてもらいながら、マリナは正面に立つシャルルをそっと見上げる。
「あんたお父さんみたい」
ピタリと止まるシャルルの手。
ややしてからかうような皮肉げな声が響く。
「こんなところに男と二人きりでいるようなふしだらな娘なんか、持った覚えはないぜ」
「ふっ、ふしだ…! 今日のことは不可抗力じゃないっ! 変なこと言わないでよっ。
あたしにもタオルちょうだいっ。あんただって人のこと言えないわよ、拭いてあげるからベッドに座んなさいっ」
「結構だ。がさつなマリナにやられたら、オレの繊細な髪がまた切れる」
「あんたまだ根に持ってるの!? しつっこいわねぇ、男なら過ぎたことはすぱっと忘れなさいよっ」
「フン、日々忘却の誰かさんとは違うんでね。それに注意を怠ると、君という弊害から身を守ることが出来ない」
「あ、あんたって、ホントに人怒らすのも天才よねっ」
振り上げられたタオルをまたしてもひょいと奪って、涼しい顔でシャルルは、ドロのにじんだマリナのブラウスのボタンに手をかけた。
「ぎゃっ、なっ、なにやってんのよ!」
「何って、この不潔極まりない服を脱がそうとしているのさ」
「いいっ、いいっ、そんなの自分でやる~!」
「遠慮するなよ、父と娘のスキンシップじゃないか」
ニヤリと笑ったシャルルを突き飛ばし、洗面所に逃げこむマリナ。
それを見送ったシャルルはひとり、愉快そうに低く笑いながらベッドに腰かけ、濡れた自分のブラウスのボタンを外した。
雨が降る―――静寂が、彼を覆った。
ふと、うつむいて微かに吐息をつく。
しかし濡れた白金髪に遮られ、その表情は伺えない。
―――ややして。
皮膚に張りついたブラウスを億劫そうに脱ぎ捨て、窓際に立つ。
薄暗い部屋の中、無駄のないしなやかな白磁の肌が、浮かび上がる。
絶え間なく雨露のしたたるガラス窓の向こうには、靄にけぶるセーヌが、テンぺラ画のように平たく、灰色の肢体を横たえていた。
青灰の瞳に果たしてそれが映っていたのかは謎だが、シャルルはそのくすんだ光景に目を向けたまま、手にした携帯電話で屋敷に連絡を入れた。
着替えの調達と迎えをよこす旨を、感情のない透明な声で伝い終えると……その細い指先で迷いなく、電話の電源をオフにする。
そのままサイドテーブルに半ば放るように置くと、開きかけた唇を再び引き結んだ。その様は、まるで消化しきれない想いをもてあましているようで、やがて諦めたようにしなやかな腕が持ち上がり、その想いをなだめるように濡れた髪をかきあげる。
はらりと落ちた一房の銀糸が、なぜか哀愁を帯び、自嘲的に歪められた端麗な唇にかかった。
その時、

「―――シャルル」

予期せぬ声に、シャルルは弾かれたように振り返ると、洗面所のドアの影から、マリナがそっとこちらを伺っているではないか。
「…どうした、シャワーを浴びたにしちゃ早すぎるじゃないか。寝こみたくなかったら、ちゃんと暖まってこなくちゃだめだぜ」
窓際に立つシャルルの上半が裸身ということに気付いたマリナは、慌てたように視線をそらすと、ドア影でもじもじとしたまま黙ってしまった。
幼さを助長する赤いヘアゴムのない髪が、着替えたオフホワイトのバスローブの肩にかかっているのが、やけに艶をはらんで見える。
「…雨、まだ降ってるの?」
「ああ…、この様子だと当分止まないだろうな」
「今日、なんか寒いわよね」
「この季節は、気圧が不安定だからね」
「暗いし、ね」
「? どうしたんだマリナ、どこか具合でも…」
「シャルル、シャワー使う?」
「オレは後でいい。ああ、今屋敷に連絡を入れたから、着替えならすぐ届くよ。心配しなくていい」
「あ、うん、ありがと…、…」
「―――」
「……っ、あー…」
「マリナ?」
「し、シャルルっ。その…そっち、行って、いい?」
「え?」
「き、今日その、雨で暗くてっ、ひとりでいるとその…だから、っ」
タオルを抱きしめたまま、うつむき消え入りそうな声で小さくマリナは告げた。

「さっ…、さみしく、なっちゃったの」

―――幸福で、あまりにも幸福で―――シャルルは、呼吸が止まりそうだった。
そして刹那きつく瞳を閉じ、先ほどまで吐き出したかったことが何であるかを、やっと理解した。
淋しい…そう、どこまでも埋めることの出来ないこの寂寥感の正体は、彼女がそばにいなかったから―――。
ほんの一時ですら、離れたくない。
なんて簡単な、言葉。
それすらも吐き出せなかった、かたくなな自分。
対するマリナの、たった一言発した素直な心。
シャルルはきつく眉ねを寄せ、切ないほどに微笑むと、慎重に深く深く吐息をもらした。
この熱く猛る想いを押しつけて、マリナを壊したくはなかったから……。
吐息とともに、ゆっくりと熱を逃がす―――おずおずとさし出された、柔らかな手を取るために。



「…おいで」





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